トマス ハーディ。 ハーディ(はーでぃ)とは

ダーバヴィル家のテス

トマス ハーディ

この間ナポレオン戦争を題材に、人間界の争いを天から見下ろす精霊たちの嘲笑 ちょうしょう や哀れみの対話で構成された三部の長編叙事詩『覇王たち』(1903~08)を完成している。 大人の童話・寓話というか。 従妹スーのフルネームは Susanna Florence Mary Bridehead、ユリの花のような聖母のごとき花嫁ということで、性的潔癖さを連想させる名前だ。 『ハーディ短篇集』(編訳、、2000年)• ただし燃やした「とされる」と紹介されることが多く、本当に焚書の事実があったのかは不透明。 この短編集のなかでは、「アリシアの日記」と「良心ゆえに」、そしてハーディの長篇『帰郷』をちょっと思わせる「憂鬱な軽騎兵」が、物語的な結構にさほど不自然さがなく、短篇的なおもしろさを感じました。

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書物の王国 7 人形の通販/『書物の王国』編纂委員会/トマス・ハーディ

トマス ハーディ

この手の話って、なぜか「男性と人形」ですよね?? まー、男の人形ってのも絵にならないからかしらん。 1885年、都会生活への不満と、健康上の理由から田園生活を決意し、ドーチェスター近郊にみずから設計した家を建築し、それを マックス・ゲート と呼び、そこを永住の地に定めた。 上巻(2007年4月 ISBN 978-4122048430)• リアリズムとファンタジーの中間というような、どこか夢想的な雰囲気がハーディの作品には漂っている。 そして動物愛護の気持ちを抱き続け,動物を虐待する人間を告発した。 私個人としてはハーディの リアルな作風の中から「人間への深い同情と愛」が感じられて愛読者の一人です。

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トマス・ハーディ『日陰者ジュード』: くりホンレビュー

トマス ハーディ

どの時代の、どの訳者も、英語の原題にとらわれることなく、自由に解釈して訳してきたように思われる。 現代では自然主義の古典として再評価され、世界中で愛読されており、特にハーディ最後の作品『日陰者ジュード』は古典英文学の定番と言われるほどになっている。 まあ、でもこの短篇集は、ふつうに読めます。 ただしハーディの手法は極めて保守的、かつ【女性】の設定や洞察も作品中にみる限り単眼ですね(その主旨で以って教条的に書かれているのですから仕方ありませんが)。 一方「小説」という形式は新しく、しばしば「俗」「新奇」「風俗的なもの」なものとして受け止められ題材も新しく同時代批判が盛り込まれやすい表象手段だったことですね。

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トマス=ハーディー

トマス ハーディ

共演は「トゥルーナイト」のリアム・カニンガム、「ミュリエルの結婚」のレイチェル・グリフィス、英国を代表する喜劇女優のジューン・ホイットフィールドほか。 百年後にそんな未来が来ることを、ハーディにも教えてあげたかった、本当に。 「マルスリーヌ」は極悪非道の女房だし、「代書人」はイってるし、ハーディの「彫像の呪い」なんか、ラストでもう一脅かされ、だし。 もしくは、イングランド国教会の「宣教師」を目指して、たとえば Church Missionary Society College, Islington に入学できていたら、彼の人生はまったく変わっていただろう。 自分なりの理屈で、相手との性的関係を拒否したり受け入れたりするあたり、男性側からしたらストレスがたまりそうだ。 ただし、ハーディが最初に雑誌にこの小説を発表したとき、スーは誰とも最後まで性的関係を持たない設定になってたそうで(だから上記の結婚完遂場面もない)、そうなるとまた話が相当違ってくる。

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呪われた腕: ハーディ傑作選 (新潮文庫)

トマス ハーディ

内村鑑三が所蔵していた英語の新約聖書(見返しに「May 14 1926」の文字あり)の展示があり、見開きになった2テモテの冒頭に簡単な synopsis がついていた) それにしてもジュードの独学は素晴らしい。 紙の本 人形と人間の立場の逆転。 第二作の牧歌的喜劇『緑の木蔭 こかげ 』(1872)が広く迎えられ、作家としての地位を固めた。 つまり伝統的なものにすぎないということ。 1928年風邪が原因となり、マックス・ゲートで永眠した。

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トマス・ハーディの映画作品

トマス ハーディ

19世紀のイングランドを舞台に、運命に翻弄されながらも愛を貫き通そうとする男女の姿を描いた文芸ラブ・ストーリー。 今のところ、手軽に読めるのは岩波の『テス』くらいなものだが、これだって翻訳の賞味期限はとっくに切れている。 エンジェル・クレア(Angel Clare)• これが一因となって、彼は小説の筆を折り、若いころから念願の詩人として後半生を送る。 代表作の『テス』(1891)は美しい自然描写と残酷な運命の戯れを織り交ぜた作品で、因襲的な社会道徳に対する作者の抗議が読み取れる。 ただし、彼の場合、「神の働き人たれとの召命を受けた」というより、「好きな学問の道に進んで出世したい」という野心を持っていた(当初は bishop か archdeacon になりたいと思い、のちに僻地の村か都会のスラムの curate が関の山かと腹をくくる)。

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トマス・ハーディ『日陰者ジュード』: くりホンレビュー

トマス ハーディ

自分の罪を言い出せないままテスはエンジェルのプロポーズを受けるが、新婚初夜、エンジェルが自分の過ちを告白したので、テスも過去をうちあけると、エンジェルは失望してへ去る。 シェークスピアの『ハムレット』や『リア王』が特別な階層の特殊な人間の悲劇を描いているのに対し、トマス・ハーディの描いた小説の悲劇は、社会一般の悲劇だったからです。 小説については、ショーペンハウアーの厭世哲学やら霊肉二元論やらさまざまな思想や観念がハーディの作品に影を落としていて、それがとくに長篇ではなにやら物語自体をときに重く暗いものにしていることがあり、現代の読者にはとりつきにくいものとなっています。 個人的には、シンプルでありながら深みのある物語展開が好みだ。 第六作『帰郷』(1878)は田園ロマンスから悲劇への転換を示し、暗く厳しい自然のなかで近代思想に悩む青年の愛と挫折 ざせつ を描いている。 古い習俗を残し、変わらぬ自然に生きる農村の人々や、彼らの語り伝える数奇な物語は、幼いころからハーディに親しいものであった。

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