太鼓 さん 次郎 そつ お めし き ふる。 下村湖人 次郎物語 第五部

泉鏡太郎 高野聖

太鼓 さん 次郎 そつ お めし き ふる

朝倉夫人も、間もなく和服を洋服に着かえて玄関にやって来た。 明治の初めとて、双刀 (そうとう)なお父の腰に在り。 あるいは、また、かれの朝倉先生に対する気持ちが、「たとへ 法然上人 ( ほうねんしょうにん )にすかされまゐらせて念仏して 地獄 ( じごく )におちたりとも、さらに 後悔 ( こうかい )すべからずさふらふ」という 親鸞 ( しんらん )の言葉と、 一脈 ( いちみゃく ) 相通 ( あいつう )ずるところがあるからなのかもしれない。 山 ( やま )の 高 ( たか )さも 谷 ( たに )の 深 ( ふか )さも 底 ( そこ )の 知 ( し )れない一 軒家 ( けんや )の 婦人 ( をんな )の 言葉 ( ことば )とは 思 ( おも )ふたが、 保 ( たも )つにむづかしい 戒 ( かい )でもなし、 私 ( わし )は 唯 ( たゞ ) 頷 ( うなづ )くばかり。 信長は虎狼 ころう なり、群羊の肉を裂き、血を啜るに非ざれば飽くことを 知らず。 つぎ また さき さんしょく ごと これ かさ みくち これ く 〔 はじ なか つぎ ひだり かど つぎ みぎ かど 〕 やたけび こえ はつ 次に又、先の三色の如く之を重ね、三口之を食ひ 〔始めは中。 数秒の後、まぶしい 深紅 ( しんく )の光が 弧 ( こ )を 描 ( えが )いてあらわれたと思うと、数十本の櫟の幹の 片膚 ( かたはだ )が、一せいにさっと 淡 ( あわ )い黄色に染まり、無数の動かない電光のような 縞 ( しま )を作った。

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大町桂月 自叙伝 「冷汗記」

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渡邊千春氏は英語専修を経ざるに、優等生なりき。 土蔵の壁に偉大なる蜂の巣あり。 山吹 やまぶき とやらんは姫 ひめ が姆女 もりめ なるよし、汝 なんぢ 我 わが ために媒 なかだち せば、命 いのち をたすけて、褒美 ほうび はのぞみにまかすべしといひければ、山吹 やまぶき 眉 まゆ をひきたてゝ〓 はがみ をなし.やをれ山賊 さんぞく の人非人 にんひにん め、穢 けがら はしき身 み をもつて、姫 ひめ を心 こゝろ にしたがへんとは、およびなき願 ねがひ なり。 余が之に入会したる頃は、その範囲を大学以外、高師、高商に及ぼしたるが、それにてもなお会員の数は二、三十人過ぎざりき。 私立でも、まじめな学校では、やはりいちおう本人に会ってみてからでないと入れてくれないからね。 文章なら誰にも負くるものかと、自惚れたるは、実に冷汗千万也。

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魯文の艶本

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次に又、先と同様に三色を重ねて、三回これを齧って〔始めは真ん中を、次は左の角を、そして右の角を〕、矢叫びの声を発しました。 同小次郎。 為兼 ためかね 公光 きんみつ に命 めい じ、清若 きよわか の供 とも にしたがひつる、乳母 うば 侍女 こしもと 等 ら をめしいださせ、水二郎が申すにたがはざるやと、猶 なほ もやうすを尋 たづね させ玉ひけるに、目をすりあかめたるこしもとども、またくりかへす周諄 くりこと の、不用言 いらぬこと までとりまぜて、泪 なみだ をそへてものがたり、声 こゑ をとゝのへてぞ嘆 なげき ける。 同藤次。 殊に 陸放翁の『平時一滴不入口、意気頓使千人驚 』の境遇に在りしこととて、三口にて瞬く間に七合を飲み干したり。 国立国会図書館蔵本 (一四七/五三)と学習院大学日本語日本文学研究室蔵本 (九一三・六六一/五〇八三)は岡田茂兵衛板、東洋大学図書館蔵哲学堂文庫本 (ぬ四/左/二七〜三二)と国学院大学蔵本 (九一三・五六/Sa六九)、中村幸彦氏旧蔵本 (国文学研究資料館マイクロフィルム ナ二/三七/三)は前川善兵衛板である。 到底比較にならず。

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惟任日向守 これたふ ひうがのかみ

太鼓 さん 次郎 そつ お めし き ふる

屡 しば/\ 是 これ を推辞 いなむ べきに。 「工藤庄司景光は十一歳からずうっと狩猟の技を自慢としていました。 いざ/\と案内 しるべ して、落行 おちゆか んとなしけるに、雨 あめ は車軸 しやぢく をながしつゝ、暴風 ほうふう 林 はやし をたふすがごとく、月もかくれて射干玉 ぬばたま の、闇 やみ にひらめく電 いなびかり 、さもすさまじき形勢 ありさま なり。 たまに家におちつく日があっても、夫人とも、次郎とも、めったに口をきかず、何か考えこんでは、心にうかんだことをノートに書きつけるといったふうであった。 酌人二人 しや くにんにゝん は割紙 わりがみ の髻 もとゞり にて髪を結びあげ、四度入 よどい りの土器 かはらけ にて四度づゝ十六度、肴は勝栗昆布にて勝悦 かちよろこ ぶの義を祝せりとか、実 げ に信玄は遖 あつ ぱれ文武を兼ねたる明將なりき。

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泉鏡太郎 高野聖

太鼓 さん 次郎 そつ お めし き ふる

蜂にはさされる、父には撲 (う)たれる。 射取りましょう。 当時の父の心中を思えば、冷汗ぐらいでは、実に相済まざる也。 されど、文才は百点なり、学才は八十点なり、腕力殊に身体の危険を冒すことに掛けては、たしかに優等なりとの自惚ありたるを以って、 世才 (せさい)の欠けたる為に人に馬鹿にせらるることを苦には思わず。 假令 たとへ ば、若菜屋 わかなや に下女 けじよ ひとりは大家 たいけ に似合 にあは ぬ無人 ぶにん なり。

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難易度表/おに/そつおめしき・ふる

太鼓 さん 次郎 そつ お めし き ふる

數多 あまた あるおん家子 いへのこ のうちにも、和殿 わどの とはわきて親 した しく交 まじは り、忠節 ちうせつ のこゝろをもしりつれば、なにとぞ一命 いちめい をたすけたく思ひつるが、志 こゝろざし のごとく君 きみ より助命 ぢよめい し玉ひたること、我 われ に於 をき ても喜 よろこ びに堪 たえ ざる也。 甲府滞在の夕 ゆふべ 、光秀が舘 やかた を音訪 おとな ふものあり。 ところが、つい二週間ほどまえ、ちょうど第十回の塾生募集をしめ切ったその日に、道江本人から、かれあてに、全く思いがけない手紙が来た。 こは、斎藤別当実盛、討死 (うちじに)して、稲の虫が其死体より湧き出 (い)だしたりとの伝説に由 (よ)る也。 敵の抵抗を排して、竹上に昇りゆき、縄を解けば、勝利の半は我軍に帰する也。 土佐の紙鳶 (しえん)は四角形なるが、男子を挙げたる家は、必ず大紙鳶をあげるの風習ありき。 お 互 ( たが )いが 接触 ( せっしょく )に接触を重ねて行くうちに、自然に各人の内部からいいものが芽を出し、それがみごとに共同生活に具体化され、組織化される、そういったところをねらうのが、今度の塾堂生活なんだ。

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下村湖人 次郎物語 第五部

太鼓 さん 次郎 そつ お めし き ふる

土 つち の崩 くづ れたるには薦 こも をもておほひ、軒 のき の傾 かたぶき たるには、木 き をさゝへて助 たすけ おき、あれたきまゝにあれたれば、墓守 はかもり が住 すみ すてしも理 ことわり なりけり。 いい意味の政治性と言いますか、それが人がら全体にはっきり出ていて、無意識にものを言ったり、したりすることなんか、めったにないでしょう。 我若 も し羽柴柴田の諸將の如く、人情を無 なみ し歴史を無 なみ し、涙と血を身より離すことを得ば、我も亦た忍ぶに慣れたる右府公 うふこう に從ひ、其意気を迎ふることを得るならんに。 わづかに三歳 さい ばかりの小児 せうに なれば、其 その 住所 ちうしよ を尋 たづね 問 とふ べき便 よすが もなく、観音 くわんおん の授 さづけ たまへる児 ちご なりとして歓喜 くはんき にたえず、志賀 しが の山里 やまざと なるしるべにをくりて養 やしなは せけるが、『かゝる奇談 きだん を人口 じんこう に膾炙 くわひしや せば、観音 くはんおん の利益 りやく を諸人 しよにん に示 しめ し、信 しん をとらせて利 り を射 ゐる はかりことなり』なんど、凡俗 ぼんぞく に誹謗 ひほう せられんもはらあしく、小児 せうに の事 こと は深 ふか くつゝみて人に語 かた らず。 しかし、この所謂「実用書」にも格が存在した。 黒眼鏡をかけているので、眼の様子はわからなかったが、顔じゅうが、 散弾 ( さんだん )でもぶちこまれたあとのようにでこぼこしていて、いかにもすごい感じのする 容貌 ( ようぼう )だった。 かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ くどうのさえもんのじょうすけつね うんののこたろうゆきうじ もち ばいぜん な ごぜん じさん 梶原源太左衛門尉景季、 工藤左衛門尉祐經、 海野小太郎幸氏 餠の陪膳と爲し、御前に持參し、 あいなら て これ お 相並び而之を置く。

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太鼓の達人について質問です。

太鼓 さん 次郎 そつ お めし き ふる

むろん勤労はたいせつだし、自給自足も結構だ。 早可終成風之功之旨。 序 (つい)でに言う、糯の木は、決して火に焼けず。 大川に堰あり、 石堤 (せきてい)、川を横断す。 長姉 (ちょうし)の夫なる人、後年余に語りて曰く、父君病篤 (あつ)きに臨み、遺言するから来 (きた)れと言いこさせる。

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